仏事あれこれ

永代経って何?

永代経とは「永代読経」の略です。永代経というお経があるわけではありません。

春と秋のお彼岸に先立って勤める永代経法要は、永代にわたって仏さまのみ教えを説き 伝え続られることを願い お勤めします。お念仏を伝え弘めるお寺が永代に続き、一人一人がお念仏のみ教えに遇っていただく場を相続していきます。故人から 今この私に届いているお念仏のいわれを聞くなかに、自らに目覚めさせていただくことができます。

お寺は、そのときそのときの有縁の方々が守り護持してくださって今に到り 続いて来れています。ご先祖さま方が引き継いでくださったお念仏のお法りを今私たちがいただき、そのみ教えを聞き 周りに、そして後世に伝え繋いでいく。その基点となるのがお寺です。共々に相続していきましょう。

仏前結婚式

お寺は、人生の門出にも寄り添い、お祝いします。

仏前結婚式は、不思議なご縁で結ばれることとなった二人が、敬いあいながら共に生きてゆくことを阿弥陀さまに奉告し、誓いあう儀式です。

全てのカップルの幸せを願い、異性の結婚式だけでなく、LGBTQのカップルの結婚式もとり行います。

仏式の結婚式を見たことがない、浄土真宗に今まで縁がなかった、という方も、どうぞお気軽にご相談ください。

法名について

法名とは?
浄土真宗には、「法名」という帰敬式(おかみそり)を受けて授与される名前があります。仏弟子になった証として本願寺の住職(ご門主)から名づけられる名前です。仏さまのみ教えを聞いて生きていく「仏弟子としての名のり」であり、門徒としての自覚をあらたにし、お念仏申す日々を送ることをちかうことです。生前に法名をいただくご縁のなかった方は、死後おてつぎのお寺の住職から法名をいただきます。
浄土真宗の法名は「釋〇〇」といただきます。釋の字を冠するのは、釈尊の弟子となることを表しています。
他宗では戒名なのになぜ浄土真宗では法名というのでしょうか?「戒名」は戒律を守って自力で功徳を積んで悟りを開こうとする者に与えられる名です。「法名」は阿弥陀仏のみ教えにであって、どのような人生であっても救われていく身であるとお念仏申すことを喜ぶものにに与えられる名です。戒名の「戒」は、「戒律」の意味です。末代の凡夫である私たちは、戒律を守ることなどとてもできません。日常生活の食事一つとってみても、多くの生き物の命をいただいている身です。道を行けば車で蛙などを意図せずともひいていることもあります。「生き物を殺さない」という「不殺生戒」一つでさえ守れない身であります。そんな私を「おまえをほうっておけない」と立ち上がってくださった阿弥陀如来です。そのお救いの願いとはたらきがこの身に届いていると知らされるお念仏です。
法名は死んでからのお名前ではありません。今日ただいまの私が、いのちの底から阿弥陀如来のお慈悲に支えられていることに気づかせていただくのです。いつ何時、何が起こるかわからないこの身です。来世でいただくのでなく今生で、年老いてからではなく早いうちから。ほとけさまのお話を聞く身となり、機会をもうけて帰敬式を受式いただきたく思います。

お札やお守り、祈祷の必要ない生き方

私たちはさまざまな願いを持っています。家内安全、交通安全、安産、合格祈願、病気治癒、長寿 など、ひとによって、また人生のステージごとに願うことは違うでしょう。お札やお守り、祈祷やおまじないなどで私の願いをかなえてもらおう、守ってもらおうという気持ちになることもあるかもしれません。でも、どんなにがんばっても、どうしようもできないことがあります。必ず思い通りになるわけではありません。病気が治らないこともあるし、不合格になることもあります。また、ひとつ願いがかなってもまた更に次の欲が出てきます。私たちの煩悩(身や心をまどわすむさぼりや欲、真実がみえない無知)は止まることがありません。お札やお守り、祈祷やおまじないで願いをかなえてもらおうとすることは、自らの我欲を深めてしまうことになります。
阿弥陀様は煩悩にまみれた私であることを見抜き、「ありのままのあなたを必ずお浄土に救うよ。我に任せよ。いつでもかならず一緒にいるよ。あなたの苦しいときは一緒に苦しむよ。あなたが悲しいときは私も悲しいよ。」と、どんな私であっても飽きずに捨てずにご一緒くださり、救いの願いをかけてくださっています。私たちは阿弥陀様の智慧と慈悲に照らされる中に、思い通りにならない私を引き受けて行く勇気と覚悟をいただくことができます。お法りを聞く中に、私のありようが照らし出され、真実から目を背けずに、ありのままの私を引き受けていく道を示していただきます。

仏さまのみ教え、仏教は「人間は、人間都合のものさしや自分中心の思いにとらわれて そこから逃れることはできない存在である」と説いてくださっています。私たちはお念仏のいわれを聞くなかに、思い通りにならないことに苦しむ我が身であると気づかせていただくことができます。南無阿弥陀仏のお念仏は、「気づけよ、目覚めよ、我が身を知れよ」という阿弥陀様からの呼びかけです。お念仏のみ教えをいただきつつ、私のありようを見つめ、私を迷わせているのは何なのか、共に聞かせてせていただきましょう。

七日ごとの法事とは?

お葬式の後、七日ごとに初七日(しょなのか)、二七日(ふたなのか)、三七日(みなのか)…と仏事をして七七日(なのなのか、四十九日しじゅうくにち)で終わります。
仏教で一般に七七日の弔いのことを中陰といいます。死後七日ごとに追善供養の法要を勤めて、故人の成仏を祈るというもので、四十九日が満中陰となります。浄土真宗では亡くなると阿弥陀如来におさめとられて清らかな悟りの仏となります。七日法事は、故人のご遺徳をしのび、いのちの有り様をみつめ、故人からいただいた仏縁を深めていきます。

近年は、初七日を葬儀の後同日のうちに営まれる方も多いです。

七日ごとのご法事について、お寺までお気軽にご相談ください。お気持ちがあってもその日は都合つかない場合、相談して別日にお勤めすることもできます。僧侶に読経を依頼しない場合でも、ご家族で仏さまに心を手向けご仏壇に手を合わせることができるといいと思います。

大谷本廟(祖廟)への分骨について

大谷本廟(祖廟)への分骨
浄土真宗の祖 親鸞聖人の廟所(お墓)が大谷本廟です。大谷本廟に、御遺骨の一部を分骨し、祖師 親鸞聖人のおそばに納骨することが、門徒のたしなみ 習慣としてあります。大谷の廟所にご家族のご遺骨の一部を納骨して、機会あるごとに参詣し、長く祖師のご法義に縁をつなぎ、子孫ともども信心をいただき結ばれていきたいものです。(毎年の栃木北組の団体参拝の折にも納骨できます)

月忌参りとは?

月忌(がっき)とは、毎月の亡くなった日と同じ日(月命日)のことです(命日が1/5のとき、毎月5日は月命日です)。故人の月命日なので、故人への追慕を通して、お法り(おみのり)に遇わせていただき、私たちのいのちをみつめ感謝のひとときを持ちます。

月忌参りについて、お寺までお気軽にご相談ください。お気持ちがあってもちょうどその日にお勤めすることが無理な場合、相談して別日にお勤めこともできます。僧侶に読経を依頼しない場合でも、ご家族で仏さまに心を手向けご仏壇に手を合わせることができるといいと思います。

なぜ清め塩をしないのですか?

清め塩の由来は、死への恐れから死を不浄なものとしてとらえ、それを自分から遠ざけようとする思いから生じたと考えられます。不浄、死のケガレを清めるために塩を用いました。

浄土真宗では 死をケガレや不浄なものとはしません。亡くなると 阿弥陀如来のお救いによってもれるものなくお浄土に往生し、清らかな悟りの仏となります。今生での縁尽きて、お浄土に生まれ仏とさせていただくのです。ですから、ことさらに死を恐れたり忌み嫌うことはありませんし、死のケガレを清めるという塩は必要ありません。

また、清め塩を用いるということは、生前親しんだ家族や友人たちを、死を迎えた途端に不浄な存在として扱うことになります。誰もが決して逃れることができない死。私も例外ではありません。死んだ途端に ‘不浄なもの’ としておとしめられてしまうのは、残念で悲しいことではないでしょうか。