宗教法人 養泉寺
お知らせ

コロナ禍における喪失、葬儀について

コロナ禍における喪失、葬儀について

コロナ禍における喪失
皆さんは新型コロナにより、どんなものを失いましたか?
・日常 ・自由 ・人と会うこと ・安心、安全 ・試合や大会などの行事
・サークルなどの居場所 ・職・収入や経済的安定
・将来への見通し、展望・教育の機会
・好きだったお店に行けない、お店がなくなった    などなど
人それぞれにあると思います。
また、その影響はどんなものでしょうか。
大切なものを失うことは、心や身体にさまざまな感情や反応を引き起こすことがあります。(「喪失に向き合う、グリーフケアについて」をご覧ください。)
コロナ禍のなか、愛しい人を亡くされた方もいらっしゃるでしょう。

コロナ禍における葬儀
特に、コロナ禍においての葬儀では
◦入院や施設でなかなか面会できず、また儀式を簡略化せざるをえず、お別れが十分にできなかった。
そのため、気持ちの整理ができない。後ろめたい。故人に申し訳ない。
◦ご遺体と過ごす時間が限られる、もしくはご遺体を見られないことで、実感がわかない。
など、やむをえない状況の中で抱えてしまう感情や反応があるかと思います。

あいまいな喪失
喪失そのものが不確実で、失ったかどうかはっきりしない喪失を、あいまいな喪失といいます。
あいまいな喪失は、判断を困難にし、人を動けなくさせて混乱させる、緊張を高める、といった特徴を持っています。そのため、家族やコミュニティの人たちの間でも共有が難しくなり、時には距離を取りたくなるようなこともありえます。

判断がしづらい状況にあるときには、何かを決めようとすると、より緊張が高まります。こういったときには、決定するための会話よりも、予定の確認や雑談といった何気ない会話をする時間がお勧めです。また、今感じていることや、身体の感覚に意識を向けることも助けになるかもしれません。

また、あいまいな喪失には、「両方、ともに」という考え方が役に立ちます。いま、喪失感を抱きながら、(喪失感と)“ともに”、本を読んだり、散歩に出たり、誰かとご飯を食べたりしながら、そこに安全な感覚を感じることができます。今、正常な感覚はないけれど、それでもなお、目の前にある日常を生きているという、その両方の感覚を認めてもよいのです。

公認されない悲嘆
偏見にさらされかねない新型コロナによる死別というのは、「公認されない悲嘆」を生み出している可能性があります。喪失を経験した人が、公に悲しむことができない状況や、社会的に支援が受けがたい状況にあるかもしれません。
偏見や差別を気にして周りの人に言いづらい、話しても周りに認められない、過小評価される、などです。

公認されない悲嘆は、新型コロナによる死別だけではありません。
たとえば、死因が偏見にさらされやすい自殺やHIVであったり、亡くした人がLGBTの方だったりした場合、その死別を経験した人が、まわりに悲しみや困難さを表することができず、孤独に苦しんでいることが多いと言われています。

新型コロナも、遺族自身も罹患している、もしくはその可能性により、孤立していることに加えて、偏見により助けを求めづらくなっていたり、死因を隠しながら弔っていかなければいけない現状があるかもしれません。

無理に前向きに、というのはしんどいと思います。

「大切な人をなくした人のための権利条約」
第1条 楽しんでいい 落ち込んでもいい
第2条 自分を許してもいい
第3条 考えない、思い出さないときもいい
第4条 自分を大切に
第5条 助けてもらうこと
第6条 みんなちがって、それぞれにいい
第7条 自分の人生を歩んでいい

この7か条を心にとめ、自分が感じていることや身体の感覚に意識を向ける。喪失感を抱きながら(喪失感と)“ともに”日常を生きる、ということを無理せずしてみてください。

辛さを抱えこまず、お気軽にメールください。

資料 「グリーフケア、サポートが当たり前にある社会の実現」を目指す一般社団法人 リヴオン より